議論とディベート


複数の人間が集まれば、それぞれ意見、知識、見識、嗜好が異なるのは当たり前の事で、何かを行おうとする場合や知識や見識を広げたりする場合は議論を行う事になる。この議論で決定した内容で行動したり、新たな知見、知識を得たりするわけだ。


いずれの場合でも「互いの利益になる」と言うのが原則としてあったと思われるのだが、やがて、自分だけの利益や自己満足の為に議論をコントロールしようとする連中が発生してくる。職業的詭弁家と言う奴だな。


こういう連中の思惑を排して、元々の目的となる議論を行うための教育が、日本の場合非常に遅れていると思われる。会議や掲示板やブログでの議論の混迷する様子を見れば納得出来るでしょう。少なくとも、目的が明確でない議論は付き合うだけ時間の無駄だと心得ておくべきだ。


さて、議論の技法を元にして、言葉の勝負するのがディベートである。目的は、相手の矛盾を突いて、より説得力のある言葉を紡ぎ出し、勝敗を決める事である。公平性を考えるとテーマは当然、結論が出ないものとなる。


議論に対するスキルを磨くために、ディベートの訓練を行うのは非常に意義のある事である。しかし、現実の問題を議論するのに、ディベートと同じように勝ち負けにこだわる議論展開を行う馬鹿が非常に多い。本末転倒の議論はいい加減にして欲しいものだ。